サイモン・カンディ インタビュー(2025年3月)
2025年3月、7代目当主サイモン・カンディ(マネージング・ダイレクター)が来日しました。父アンガスのことや今後の展望についての
最新インタビュー。ぜひお読みください。
2025年3月21日
聞き手:トランクショー日本担当スタッフ
── 長年にわたって6代目当主をつとめたアンガスさんが昨年の2024年8月に亡くなり、7代目として単独でヘンリープールの代表となりました。
父アンガスのレガシーをお話ししたいと思います。まず、1970年代から80年代に、ヨーロッパ、とりわけパリに販路を広げたことです。その顧客のひとりが、当時のシャネルの弁護士ルネ・ド・シャンブランさんで、他には元フランス大統領のヴァレリー・ジスカールデスタンさんなど、顧客の開拓と広がりがとても大きかったです。また、ロンドンでも、政治家や社交界で顧客を広げ、米国でも顧客も拡大していきました。
そして、もっとも大きな功績は、1982年に本社をサヴィル・ロウに戻したことです。プールはもともとサヴィル・ロウにありましたが、1962年、老朽化していたビルの修理と莫大な税金のため、代々受け継がれるはずだった借地権を売却するしかなく、サヴィル・ロウから立ち退いて2筋西側のコーク・ストリートに移りました。結局ビルは取り壊しになりました。
歴史も愛着もあるサヴィル・ロウから出ることは、当時の5代目当主サミュエル(彼の父で私の祖父)はもとより、アンガスにとっても断腸の思いでした。スーツを求めておられるお客様は、やはりサヴィル・ロウを目指して来られますので……。
それが、アンガスの多大な努力で、1982年になってサヴィル・ロウに戻れることになったわけです。まさにそれが決まった頃、アンガスはサミュエルが入院していた病院へ駆けつけ、サヴィル・ロウに戻れることになったよと枕元で報告したんです。すると、サミュエルは微笑みで返しました。その後すぐに息を引き取ったんです。
ヘンリープールはサヴィル・ロウの創設者のような存在でした。しかし、プール家には子どもがいなかったことから、従兄弟ということでプール家から引き継いだのがカンディ家です。ところが、カンディ家はその創設の地を手放さなければならなかった。それは、サミュエル・カンディにとっては心から苦しいことだったんです。しかし、自分の息子がサヴィル・ロウへ店を戻してくれたことを、サミュエルは死の淵で聞くことができました。プールの歴史にとっても重要な物語になっています。
私は当時まだ子どもで、祖父サミュエルの思い出は、パイプの煙と、美しく整えられた庭です。芝の目がとてもきれいでした。サヴィル・ロウへの帰還はなんとなく覚えています。引越しの作業は私も手伝いました。サミュエルの枕元に私もいたというわけではありません。父のアンガスから、この話を聞きました。
またアンガスは、現在は当社のコンサルタントであるカッターのフィリップ・パーカーと職人育成のプログラムを考えました。それも大きな功績です。当時の職人達は同じような年齢で、このまま経つと皆が同時期にリタイアする年齢になることに気がついたんです。このままでは品質を維持することが出来なくなる、と。そこで、3年に一度若い人たちをアプレンティス(見習い)として雇い入れて、育成していくというプログラムを考え出したんです。それは大きな投資でもありました。すぐに売上につながるものではありませんし、成長するまでに何年も待たなければなりません。しかし、それを継続してきたことで、ヘンリープールは今でも職人の人材不足になったことはありません。
また別の功績が、注文台帳でアーカイブ(保存記録)を作ったことです。コーク・ストリートへの移転によって、チャーチルなどの貴重な型紙は処分されてしまいましたが、注文台帳は残していました。第二次世界大戦で空爆に遭って、それが原因で店内が水浸しになり、台帳は大きな損傷を受けたりと、被害もありました。それらの台帳を修復する計画を立て、予算を組んで、120冊の台帳修復という10年計画として取り組みました。それらの詳細を見返すことができたことで、ヘンリープールの歴史的顧客をまとめた書籍も出版することができました。それも、アンガスの功績です。
── ヘンリープールはサヴィル・ロウで最も古いテーラーというだけでなく、世界に知られるテーラーとして、来年(2026年)には220年の歴史となります。
ファミリービジネスをここまでの長きにわたって続けられていることに、心から感謝しています。そして、それをこれからも継続していくことへの情熱も感じています。また、サヴィル・ロウという場所でのスーツ作りを続けてこられたこと、ヘンリープールはスーツを求める人々にとっての目的地のひとつであり続けていること、そして、当社でスーツ作りに情熱を傾けている人々やその家族、関係者が今でも大勢いること、それが220年続いてきました。そのことへの感謝と誇りを感じています。
パリにもイタリアにも素晴らしいテーラーはあります。そんななかで、私たちには培われてきた独自のDNAがあり、それらや、製品の品質、お客さまへのサービスが支持されてきたことは確かなことだとは思います。ただやはり、タイムレスなエレガンスをご提供してきているという実績、お客さまがそれらを私たちにお求めになってきたという積み重ねの結果だと思っています。また、生地を作っているミルや、階下の工房にいる職人たちも、お客さまが喜ぶということを目的に服作りをしてきた歴史の積み重ねでもあるでしょう。
もちろん、ヘンリープール・ルックというスタイルはありますが、それらを含め、お客さまが求めてくださって、そしてそれを実現出来ていることの積み重ね。それが220年続いてきたということだと思っています。
お客さまがお求めになるスタイルを実現することに最善を尽くしてきたことの証しが、ヘンリープールの220年という歴史です。たとえば、多くの人たちが1990年代にアルマーニのタキシードを求めた、そういう時代がありました。丈が長く、肩幅が大きいスタイルですね。そういうスタイルが流行しましたが、私たちはそれには流れませんでした。ヘンリープールは、クラシックであることに基準を置いてきました。そうすると、当時流行ではなかったクラシックスタイルをお求めのお客さまが、結果的に戻ってきてくださった。ヘンリープールは、そのような安心できる場所にもなっていたんだと思います。
もちろん、私はアルマーニはリスペクトしています。アルマーニのおかげで、多くの人たちがディナースーツを着て、オシャレをして街へ出かけよう、という気になりました。それはアルマーニの功績だと思います。ドレスアップする喜びをしっかり提供していました。そのドレスアップ文化は、今でも継続されていると思います。90年代のオスカーのパーティやレッドカーペットでは、みんながアルマーニを着てドレスアップしていました。それは確かに当時のトレンドだったのかもしれませんが、オシャレをしようという人々の気持ちに火を付けたのは、アルマーニだったと思います。
── 2025年にウェブページが新しくなりました。「ミート・ザ・チーム」でのスタッフ紹介で、職人さんたちを幅広く紹介している点が印象的です。
私たちのビジネスは、カッターだけで成り立っているわけではありません。カッターはお客さまと対面で採寸したりご希望をお聞きしたりしますが、カッターの背後にはコートメーカー(上衣担当職人)やトラウザーメーカー(ズボン担当職人)がいます。それらの職人たちがどれほどの手間と熱意をそそいで衣服を作っているのかを知っていただきたいんです。サヴィル・ロウのショールームの階下には、それら職人たちが仕事をする工房があります。お客さまに工房を公開しているのも、そのためです。もちろん、それらの作業現場を見せず、美しく整えられたショールームだけをお見せするという方法もあるかもしれません。ただヘンリープールでは、あえて職人たちの仕事場を見ていただきたいと思っています。そこで衣服が作られていく工程をご覧いただくことも、ビスポークのひとつだと思っています。
そして、工房で仕事をしている職人たちに会って、彼らと会話をしていただくことも大切なことだと思っています。実際に手で服を作っているということを知っていただきたいんです。たとえば、レストランでも料理人達が作っている様子を見られるようなオープンキッチンを用意している店もあります。自動車でも、アストン・マーティンは工場見学を用意しています。それと同じ考え方です。
── インターナショナル・ウィメンズ・デーにちなんだ記事がウェブに掲載されていますね。ヘンリープールで働く女性たちを大きく取り上げた記事です。
1806年に創業したときから、ヘンリープールには女性のスタッフがいました。女性のお客さまも常にいらっしゃいます。現在は、スタッフの約40%が女性です。サヴィル・ロウでも、最近2人の女性がテーラーを起業しました。
今はアネット・アクセルバーグが女性カッターとしてプールで働いています。カレッジ・オブ・ファッションを卒業した後、ハンツマンやギーヴス・アンド・ホークスをはじめいくつかのテーラーで修業して、自分でお店を持った経験もあります。すでに技術や経験があってプールに入りましたので、その基本的な技能を元に、プールのお客さまがお求めになるスタイルをご提供できるよう、先輩カッターたちから学んでいます。アネットは主に女性のお客さま担当ですが、男性のお客さまも担当します。
── インターネットを積極的に活用していますね。
SNSやウェブサイトのおかげで、私たちや、英国の職人によるものづくりの世界を広く周知できる可能性を実感しています。カスタムメイドの商品は、店頭に完成品として並んでいるわけではありません。インターネットでは、そんなカスタムメイドの世界を幅広く知らせることができます。それが、世の中の流れを変えるチカラにもなっているのではないでしょうか。
ワンクリックでヘンリープールにアクセス出来たり、私たちが取り組んでいるピュア・ビスポークがどういうものなのか、容易に知っていただくことができる。それがインターネットの魅力でもあります。私たちやミルなどへの取材がドキュメンタリーとしてYouTube等の映像メディアで簡単に広がっていくことは、すごいことですね。生地が作られる過程や着こなしなども、映像で分かりやすく説明できます。それらが、検索することで情報をほしい人の元へきちんと届く。インターネットは、従来の紙メディアでは出来なかったリアリティのある情報提供ができています。豊富な音声や映像で。これからの雑誌メディアでの情報提供は、紙面に2次元コードのリンクなどをつけて、オンラインでの映像メディアと相互関係をつくりながら読者に情報提供をしていくことが重要かもしれませんね。
── ようやく、パンデミックという長いトンネルを抜けました。
お客さまには3つの変化があったと感じています。まず、仕事での着こなしが変わったことです。パンデミック以前には仕事ではスーツしか着ていなかったお客さまが、1週間に数日は自宅にいて、数日はオフィスに行くなどの日常に変わり、カジュアルダウンされました。ただ、オンラインミーティングでの業務もあるので、Tシャツというわけにもいきません。そこで、スポーツジャケットをご注文になるようになりました。
2つ目が、ドレスアップです。それは、女性の影響といえます。女性たちはパンデミック後に待ちに待った外出を再開しましたが、そこではオシャレをして出かけるわけです。その場合、ドレスダウンが定着していたパートナーに、ちゃんとお金をかけてドレスアップするよう促したわけですね。
3つ目ですが、パンデミックのあと、若いお客さまが増えました。20歳代30歳代です。自宅待機している間にインターネットでリサーチする時間も増えて、高品質なものを身につけることや、上質な服を着る状況ってなんだろう、オフィスに戻ったら何を着よう、クラシックって何だろう、などの深掘りをされていたようです。そういうなかで、サヴィル・ロウに関心を持ち、訪れるようになりました。そんな若いお客さまがご来店になるようになったことは、私たちにとっては驚きで、今までにない傾向を感じました。
── 未来に向けての展望を聞かせてください。
ヘンリープールのクオリティを今後10年、20年と保っていくために必要なことが、アプテンティス制度です。私たちはこれからもプレンティスの雇用を続けていきます。アプレンティスが一人前になるには、3年かかります。彼らにとって、初年度はまったく何もできないでしょう。それだけを考えれば、ヘンリープールにとって金銭的利益になるものはありません。そればかりか、彼らを指導する先輩達の手を止め、時間を掛け、というように、仕事自体もスローダウンしてしまいますし、場合によっては中断してしまうこともあります。そういう意味ではロスかもしれません。しかし、それをロスと捉えず、支援しつつ育てます。ロンドンで3年間暮らしていけるだけの給与を支払い、その予算も組み、計画的に育成します。2年、3年と経験を重ねていくにつれて、アプレンティスは何らかの貢献ができるようになっていきます。それが結果としてヘンリープールの未来につながると信じています。
私の後継者という意味では、私には2人の息子がいます。ひとりが財務方面、もうひとりはオペレーションやセールスに関心を示しています。もちろん、製品についての知識などはこれから学んでいくことになります。私は父アンガスの紹介でヨークシャーのミルで研修し、生地の生産現場を体験して学びました。息子達にも同じように生地を学んでもらうつもりです。
息子の時代には、ひとりがCOO、ひとりがCFOという体制でヘンリープール社をリードしていくことになると思います。実際、かつて祖父はセールス面をリードし、叔父が財務を担当していて、それはとてもバランスの良い経営につながっていました。今後も、そのように良いバランスで運営していってほしいと願っています。
船の漕ぎ手にたとえるなら、いろいろな漕ぎ手が船に乗って漕いでいても、全員のバランスが良くないと、船は安定して進みません。ヘンリープールはファミリービジネスとして220年継続してきました。漕ぎ手は経営者だけではなく、スタッフもふくめて全員です。現在、とても良いバランスで船を漕げていると思っていますし、これからもそうあるよう、努力を継続します。