ヘンリープール 6代目当主
アンガス・カンディ氏インタビュー(2010年11月)

ヘンリープール6代目当主、アンガス・カンディ氏。1937年生まれの氏は、サヴィル・ロウの重鎮であり、生き字引とも言われる伝説の人物です。
スーツの聖地、サヴィル・ロウの発展に尽力し、一時既製服に押されていたビスポークを、文化においても、ビジネスにおいても復活させた立役者でもあり、今でも世界中から多くの人々がアンガス氏の意見を聞きに訪れるといいます。
息子であり、跡継ぎでもあるサイモン・カンディ氏とスタッフを育てながら、今も活気あふれるアンガス氏が2010年11月に来日。ロングインタビューする機会を得ました。
まだまだ語り尽くせぬ深さをたたえつつ、歴史を知る人のみが聞かせる奥行きあるお話、たっぷりお楽しみください。


Angus Cundey(アンガス・カンディ)
ヘンリープール社 6代目当主

1937年生まれ。1955年にヘンリープール入社。1978年、6代目当主に就任。現在では、サヴィル・ロウの伝統と、英国服飾文化を次世代へ渡していくため、多忙な日々を送っています。


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―― アンガスさんはヘンリープールの6代目として、200年以上の伝統を引き継いでいらっしゃいます。お父さんから引き継がれたのはいつの頃ですか?

アンガス:18歳の時のことからお話ししましょう。当時私は寄宿舎にいたのですが、ある時そこの校長先生に呼ばれて、卒業したらどうするのかという進路指導の話になりました。
卒業したら空軍に入って、飛行機を操縦したいと申し上げたところ、自分の家の素晴らしい家業を継ごうとは思わないのか?お父さんのやっている仕事は世界で一番有名なテーラーなんだよと、初めて校長先生に言われました。
驚いて週末実家に帰り、父親に「お父さんの仕事で私の居場所はあるのかな?」と尋ねたところ、にっこり笑って「もちろん。」と言ってくれました。
そこが私のスタートです。

12月に大学を出て、1月にサヴィル・ロウのワークショップで女性の職人さんに針の持ち方、ステッチの仕方から学んで、それからパリのランバンで1年間見習いとして修行して、縫製を学びました。その後軍隊に入って……、という流れです。
また、父が賢かったと思うのは、私をフランスに行かせて、縫製の勉強させるだけでなく、フランス語を学ばせたことです。

ヒットラーが台頭してくる前の1940年代はパリにショップがありましたし、戦争以前はたくさん顧客がおりましたので、その方たちが私がフランスに行くとホテルにやってきて仕立てをお願いしてくださるようになりました。
その経緯からヨーロッパにトランクショーという形で出向くようになりました。パリ、ジュネーヴ、チューリヒ、デュッセルドルフ、ハンブルグ、ラッセルなどを毎年のように旅することになりました。
サイモンは今、私と同じように大変な思いをしてアメリカ全土を回っています。

私が若くしてビジネスの世界に入った時は、ランバンでカッティングの修行をしたり……、だいたい35歳でやっとテイラーのなんたるかが少しずつ分かりかけた時に、父親の事業を引き継いでいくんだという認識を持ちました。
父は12月28日が誕生日なんですが、彼が70歳を迎えた時に突然、「もうやめ!終わり」ということで店から会社からいなくなって、私は40歳を過ぎた頃だったと思うのですが、しょうがなく継ぐしかなくなって(笑)。

その時に代を交代しました。私は父と同じではなく、70歳をとうに過ぎておりますが、まだ会社に残っております。

―― アンガスさんを『サヴィル・ロウのドン』という人もいますね(笑)

そうですね(笑)。祖父の話をさせてください。本当に素晴らしい会社を継がせてもらっていると思っていますが、祖父ハワード・カンディー、彼がこの業界のルールを作った人間と言われています。
彼はサヴィル・ロウのテーラー・ザ・アソシエイションの会長でもありましたし、二つのチャリティーの代表でもあり、彼が作ったチャリティーもありました。組合の会長でもあり、現在は組織になっているのですが、テーラーの従業員、賃金体系を作ったのも彼です。
彼を見習って、私も世界のテーラーの組合や協会などの会長も歴任してますし、いろんな所の代表をしているので、そういったことから自分がサヴィル・ロウのドンと言われているのではないでしょうか。

―― ヘンリープールをお継ぎになった時、プレッシャーは大きかったですか?

アンガス:どんな会社のオーナーもそうだと思いますが、働いている人間やその将来を背負っているわけなので、プレッシャーがないことはないです。もちろん、それと同時にフィリップ・パーカーをはじめとする、我が社の従業員に支えられなければ今日の私たちがないのも確かです。

―― スーツの源流であるため、メンズスタイルの文化を創り出したのはヘンリープールだと言う人もいるくらいです。

アンガス:ヘンリープールがスーツ文化をイギリスで作ったわけではありません。しかし、確かに日本では、スーツ文化の原点を作ったのは私たちだと自負しております。それはこういうことです。
1871年、日本の在英大使館ご一行や皇太子が初めてロンドンにいらっしゃってスーツをお仕立てくださいましたが、その仕立ては私たちなのです。彼らが最初に足を踏み入れた時には袴なり着物なりの彼らなりのユニフォームでいらっしゃったと思います。その方に初めてスーツを作ったのは私たちなのです。

日本の英国大使館の方、皇族の方に初めて洋服を作ったのはヘンリープールで、サヴィル・ロウで作られた洋服のことを背広、日本語でいうスリーピーススーツとして広まったというのは有名な話です。
証明するものがないのですが、1908年ヘンリープールが三越さんからカッターを派遣するよう要請され、三越さんにカッターを英国から送り、スーツの作り方を伝授した経緯がありました。三越さんとしては松坂屋さんよりも先にヘンリープールと仕事をしたと常に言っておられます。

また、ご存じかと思いますが、1921年当時の皇太子(後の昭和天皇)が日本から船に乗って初めて英国政府と調印をするために(トレードなのか平和調印なのか私には分かりませんが)たまたまジブラルタルに到着した時に、ヘンリープールの職人がそこに乗っておりました。
彼に生地を選んでいただき、メジャーをし、それをテレグラフで打電をしました。英国の南の島に到着した時にヘンリープールのフィッターが待ちかまえていて、打電されたものをもとに作ったスーツをフィッティング、3日後に皇太子が到着、バッキンガムパレスでの調印式とパーティーにホワイトタイの服を着て登場出来るように完成品を手渡すことが出来たというエピソードもあります。

そのことは過去の台帳が残っています。皇太子が2年後に天皇陛下になられた際、私たちヘンリープールに初めて日本の皇室からのロイヤルワラントをいただくことが出来ました。今でもヘンリープール本店のエントランス近くに飾ってあります。

1920〜30年代に日本の名だたる方がお越しいただきましたが、1930年には有名な白洲次郎さんがいらっしゃいました。ご存じのとおり彼は大成功を収めたシルクのマーチャントの息子さんでいらっしゃったので大金持ち、彼はケンブリッジで学んでおられたのですが、彼が購入したのはたくさんのヘンリープールのスーツとベントレーの車です。
ブルックリンというのが世界で初めてのモーターサーキットなんですが、ご自分のベントレーでレースによく出ておられたようです。

今ホテルオークラに泊まっておりますが、1932年から大倉家にもたくさんのスーツを作ってまいりました。日本からは大使として後に首相になる吉田茂さんが1932年にいらっしゃってました。
もう一つ面白いエピソードがあります。白洲次郎さんと吉田首相ですが、1950年当時だと思いますが第二次世界大戦が終わって天皇の立場をどうするかという件でアメリカの代表の方と話し合われていた時に、アメリカ人の方が通訳をしていた白洲次郎に対して「あなたの英語はどうしてそんなに美しいんですか?」と尋ねられた時に、白洲さんが「あなたたちもケンブリッジに行ってお勉強なさったらきれいな英語がしゃべれますよ。」とおっしゃったということです。私はこのエピソードはアメリカ人には絶対言わないようにしております(笑)

―― 白洲さんはヘンリープールの常連だったとお聞きしています。「初めての顧客は顧客ではなく2度目のご注文があった時に初めて顧客と呼ぶ」とお店で教えておられるそうですね。

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インタビュー:株式会社チクマ ヘンリープール事務局
2011年10月10日 東京にて
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